一度始めたら待てない、やめられない。やりきった先に次の世界が見えてくるから~軽井沢町 山崎晋太郎さん~

インタビュー 2021.07.28

2015年に、東京から軽井沢に移住した山崎晋太郎さん。グローバル総合金融サービス会社に勤める、4人の男の子のパパです。聞いたところによると、軽井沢あたりではDIYのプロとささやかれているようで、今は購入した中古のログハウスを解体し、新たに組み直すことにチャレンジされているのだとか。この話だけでも、どのような方なのか興味が湧いてきます。

インタビューの依頼をする前は、「冬の間はスキーで忙しくてなかなか会えないんじゃないかな」とのうわさを耳にしていました。スキーで忙しいとは一体…。お仕事に趣味にとご多忙な中、なんとか時間を割いていただき、お話を伺いました。

見た目のクールな印象とは裏腹に、とにかく熱い。興味を持ったものに関しては、とことんハマって、やりきる。インタビューをしている私たちが驚いてしうまうほどの山崎さんの情熱を、文章でできるかぎりお伝えしていきたいと思います。

スキーにスケートボードにダンス…。「すぐ熱くなっちゃうんですよね

ーー山崎さんは、子どもの頃からスキーをされていたんですか?

山崎:秋田で生まれて、岩手県の雫石というところで育ちました。スキー場の近くで親がペンションを経営していたので、森の中での暮らしが僕のスタンダードでしたね。スキー場まで3分だから、弟と一緒に朝から夜までずっとスキー。親もアウトドアが好きでペンションを始めたみたいなんですが、シーズン中は忙しくて。だから僕たちはかなり放牧されて育ちました。

ーーかなりの腕前でしょうね。その頃からずっとスキーをされていたんですか?

ジャイアントスラローム(GS)のアマチュア大会に出場するなど、積極的にチャレンジされている(山崎さん提供)

山崎:まぁ、プロを目指していたわけではないので…。高校のときはスキーではなく、スケートボードにハマっていました。

ーー中学までスキーで、高校生からスケートボード?

山崎:高校生の頃、2回留学させてもらったんですが、スケートボードをきっかけに友達ができました。街でスケートボードに乗っていたら、知らない車にププーって鳴らされ、声をかけられたんです。そこから仲よくなって。おかげで英語はすごく伸びました。

ーー大学では?

山崎:アメリカのバッファローにある大学に行きました。大学ではブレイクダンスにどハマりして…。

ーー次はブレイクダンスですか…!

山崎:最初は一人で練習していましたが、そのうち地元の人とも親しくなって、一緒に練習しました。大きいバッグにスピーカーを入れて、肩に担いで、学校に行っていました(笑)。

ーー映画やドラマでありそうなシーン。

山崎:地元で開催されるファッションショーの前座で回ったり、ロサンゼルスまで武者修行に行ったりしましたよ。

ーー武者修行って…!

ストリートでダンスバトルが突然始まることもあったそう(山崎さん提供)


山崎:大学で開催された各国代表のダンス大会も、よい思い出ですね。日本代表チームを作って、3年のときはソーラン節を、4年のときは盆踊りをテーマに、モダナイズして出場したんです。初年は3位で、2年目は見事優勝しました。

ーーさきほどから聞いていると、好きになるとことんハマって、突き詰められるのですね?

山崎:そう。すぐ熱くなっちゃうんですよ。

両親を通して「世界」とつながっていた

ーー高校生の頃にドイツ、大学でアメリカと、海外をフィールドに学ばれていたんですね。

山崎:子どもの頃から「英語を使って世界で仕事をしたい」という、漠然としたイメージを持っていたんです。飛行機で移動して仕事している人、かっこいいなと。

ーー英語への興味はいつから?

山崎:小学生の頃ですね。両親は旅行がすごく好きで、よく海外に行っていたんです。いつだったか彼らがイギリスに行ったとき、英語が通じなかったことがあり…。母は悔しかったらしく、帰ってきてすぐに英語を始めました。

ーーお母さんの影響が大きかったんですね。

山崎:のちに彼らは、ペンション経営しながら輸入業を始めました。北欧からログハウスとか、窓枠、サッシなどを買い入れて販売していたんです。田舎に住んでいましたが、彼らは常に外の世界とつながっていましたね

ーーそれで山崎さんも、早くから世界へ目が向いていたのですね。

山崎:高校のとき、留学先にドイツを選んだのも、英語だけでなく違う文化にも触れたいという思いがあったためでした。

ーー大学卒業後は?

山崎:新卒での就職先は、「自分の時間・踊る時間を確保したい」という考えで選びました。カルチャーみたいなのはマッチしていたと思うんですけれど、プロジェクトマネジメントを任されるようになってからは、深夜まで働く日も多くなって…。

ーーそれをきっかけに2社目に転職を?

山崎:次は日本企業を選びましたが、働き始めてすぐに「ちょっと違うな」と感じて…。実は、日本企業に転職したタイミングで前職のクライアント、現在勤めている会社なんですが、「うちに来ないか」とお声がけいただいていました。

ーータイミングが重なったんですね。

山崎:僕、迷ったときにモットーとしている言葉があるんです。それは道が2つあったら、下りではなく上りを選べ。山で遭難しないための鉄則として、よく使われる言葉です。

ーー上りを選ぶ。

山崎:楽な道を選んだとき、「もっといけたのに」って必ず後悔するんです。だから、迷ったときは厳しい道を選択するようにしています。転職するときも、そういった視点で選びましたね。結果、2社目には3カ月だけ在籍し、今の会社に転職しました。

久しぶりに帰省した岩手。「なんてよいところなんだろう」

ーー東京で生活していた山崎さんが、軽井沢に移住したいと考えたきっかけはなんでしたか?

山崎:アメリカから戻って3カ月後、一度実家の岩手に帰省したんです。そのときなんてよいところなんだろうと改めて感じましたね。こんな素晴らしい環境に住んでいたのに、なんで今東京にいるんだろうと。

お父様が建てられた小屋(岩手にて。山崎さん提供)

ーー割と早い段階で、自然の中で暮らしたいと考えられたのですね?

山崎:あっというまでした。もちろん仕事があるので、その後も東京での暮らしが続きましたが、週末の使い方が変わってきて…。今度はダンスではなく、山に行くようになりました。

ーー次は山ですか!

山崎:僕、のめり込んじゃうんですよね。エベレストのベースキャンプにも行きましたよ。

ーーエベレスト!?

エベレストのベースキャンプ向かうまでの道で撮影したもの(山崎さん提供)
北アルプスの立山で行われたバックカントリーツアーに参加したとき、三浦雄一郎氏の次男でありプロスキーヤー及び登山家である三浦豪太氏の話を聞く機会があったという山崎さん。そこで聞いたエベレストの話に触発され、すぐに3週間ほどの休みを取りベースキャンプへのトレッキングに挑んだとのこと。

山崎:カトマンズまで一人で行きました。でも、標高5,000メートルの手前から高山病にかかってしまい、結果到達できなかったんです。

ーー相当練習が必要ですよね?

山崎:どちらかというと高度順応とか、そういうことが大事だったようですが、全然わかっていなくて。勢いだけで行っちゃったみたいな。

ーー勢いだけ…!

山崎:エベレストから帰ってきて、26歳で結婚し、翌年に第1子が生まれました。普通だと家族が増えたら、自分の時間を削って子どもの世話をすると思うんです…。完全に間違っていると思うんですが、僕、やりたいことを諦められなかったんですよね! 山には行きたいけれど、早く帰って来なきゃいけないから、次は山を走るようになったんです。

ーートレイルランニング…?

山崎:早く行って、走って帰ってくれば、お昼前には家に帰って来られる。そして午後はちゃんと子育てできる!

ーーやりたくてもできないから諦める、というならわかりますが、どうしてもやりたいから早く帰ってくるなんて…。

山崎:短いレースからチャレンジし、どんどん距離を伸ばしていきました。そうしているうちに、世界最高峰のレースウルトラトレイル・デュ・モンブランに出たいと思うようになって…。2013年に家族を連れて参加してきました。

ウルトラトレイル・デュ・モンブランに出場したときの写真(山崎さん提供)
フランスの東南部にあるシャモニー・モンブランで毎年8月末に開催される大会。ヨーロッパアルプスの最高峰モンブランを取り巻くフランス、スイス、イタリアにまたがる山岳地帯171kmを、46時間30分以内に走り切ります。出場するためには国際トレイルランニング協会が認定しているレースに出場・完走し、規定ポイントを獲得しなければならないようです。山崎さんは、睡魔と孤独と戦いながら朝まで走る練習をするなどして、準備を進めたと言います。

山崎:初参戦の記録は45時間30分。ギリギリでした。参加者の半分しか完走できないような過酷さで、途中立ちながら気絶したり、あるはずのない山小屋が幻覚で見えたりと、本当に厳しかったです。

ーー極限状態ですね。

山崎:完走はしたものの、納得がいくレース展開ではなかったので、2014年にもチャレンジしました。

ーーえ、2年連続で!

山崎:2回目は自分なりによいレースができたと思っています。それが僕のトレイルランニングのピークだったかな。燃え尽きました。

ーーそのレベルのレースだと、ご家族のサポートも必要ですよね?

山崎:練習もそうだし、レースに参加するとなると、子どもたちのことをすべて妻に任せることになるので、彼女の理解と協力がないと無理でしたね。本当に、妻がいてくれたからできたことです。

ーーぜひ、直接伝えてくださいね。

「僕、待てないので」。最短最速での移住

ーー山にハマり始めたことをきっかけに、いよいよどこか移住したいという気持ちが湧いてきたんでしょうか?

山崎:子どもが4人いまして、週末は山が多い丹沢とか、軽井沢とかに出かけていました。すると、土日の時間を移動に充てるのもったいないと思えてきて…。帰ってくるときの鬱加減と言ったら(笑)。山の近くに住めたらよいなという思いが強くなってきましたね。

ーー移住を決めた最大のきっかけは?

山崎:だいぶ前から「子育てするなら東京じゃないよね」と考えていたんです。僕の中ではニセコか軽井沢かなと。大きな転機となったのは、2015年の夏、沖縄の西表島に家族旅行に行ったときです。長男が来春に入学を迎えるというタイミング。自然の中でいっぱい遊んで帰ってきた後、「小学校どうする?」という話になりました。

ーー夫婦で話し合われたのですね。

山崎:そのとき妻が「軽井沢に行ってもいいよ」と。それで「よし、早速行こう!」となりました。

ーー移住すると決めたあとは?

山崎:2015年の9月に移住を決めて…10月には土地を買いました。

ーー早い! 家を建ててから移住したんですね?

山崎:引き渡しが3月31日でした。入学式ギリギリ(笑)。よい土地がすぐに見つかったのが大きかったと思いますね。なんせ僕、待てないので。ほぼ一目ぼれです。

ーー待てない性分が…。

山崎:沖縄から戻ってきて、2週間後に軽井沢へ中古物件を見に行って、翌週にまた行って、土地を決めた。こんなスケジュール感です。

やりたいことをできるフィールドが、すぐ目の前にある

ーー山崎さんは、東京でも軽井沢でも子育てを経験されていますね。子育てで違うと感じる点はありますか?

山崎:よい質問ですね! やりたいことをできるフィールドが、すぐ目の前にあるでしょうか。何でもそうですが、やりたいことをできる環境は近いほうがよい。やろうと思えば東京でもできるのかもしれないけれど、よりスタートしやすいですよね。

ーー子どもたちにこう育ってほしいといった期待はありますか?

山崎:自由に、おおらかに、たおやかに育ってほしいなと思っています。雄大な山に抱かれて育ってほしい。自分の子ども時代と同じ環境で過ごさせてあげたい、そういう思いもあります。

自然の中で大きく体を使って遊ぶお子さんたち(山崎さん提供)

ーー子どもたちが大きくなってからも、夫婦2人でここに住み続けますか?

山崎:よい質問ですね! 実は妻は「海がいい」と言っています。1年後どうなっているかわからないような時代になっているので、海で暮らしていても全然おかしくはないですよね。まぁ、僕はどっちかというとさらに奥にいきたいと思っています。

ーーさらに奥!?

山崎:白馬とか、もっと秘境に入っていきたい。スキーにここまでハマっちゃうと、近いほうがよいと感じます。山の大きさが全く違いますから。軽井沢の山ちっちゃいなって(笑)。

ーーこの先チャレンジしてみたいことはありますか?

山崎:スキーのレースにどんどん出たいですね。年を取ったときに体がどうなっているかわからないので、やりたいと思ったことは我慢しない。あとは作っている小屋を完成させないと。

ーーその小屋はどんな目的で作られているんですか?

山崎:目的はないんです。古い小屋を買って、解体して、組み上げて、断熱もちゃんとやる。その工程を、一通り自分でやってみたいんですよ。そうしたらまた次の世界が見えてくるのではないかなと。やらないと僕は学べない人なんです。

ーーやるか、やらないか。やるなら最後までいって、その先を見たい?

山崎:ゴールしたら興味なくなっちゃうんですけどね、でも経験は残るじゃないですか。遠い先に何をしたいとかは考えていなくて、目の前のやりたいことをやっていく感じです。

ーーなるほど。

山崎:今後はコミュニティに根ざした何かをしたいというのは考えています。つい最近、軽井沢の風越学園の子どもたちと、2カ月ぐらいダンスを一緒にやったんです。授業の一環として。仕事は仕事でしつつ、こういった接点があるとおもしろいなと思います。地域に還元するといった気持ちを持って、みんなで一緒に作っていきたいですね。

インタビューしている間、山崎さんがやってきたこと、積み上げてきたことの多さに、始終圧倒されていました。この先どのような挑戦をされるのか、1年後、2年後と追いかけていきたい気持ちです。

山崎さん、ありがとうございました!