自分の暮らしを取り戻すために、無関心でいることをやめる~御代田町 大月均さん~

インタビュー 2022.01.20

マーケティングや広告の領域で、コミュニケーションディレクター/プロデューサーとしてさまざまなプロジェクトに携わっている大月均さん。2019年から東京と御代田町での2拠点生活をスタートし、コロナ禍を経て完全移住。男の子2人と妻、家族4人で暮らしています。

リモートワーク移住というキーワードで、大手メディアから数多くの取材を受けている大月さん。「他では書かれていないお話を聞きたい…!」と欲張りな気持ちで臨んだ当日。挨拶代わりに始まったのは、最近はじめたDIYでの小屋づくりの話からでした。

自分の暮らしを、自分の手に取り戻す

ーー以前もウッドデッキをDIYでつくったとお聞きしましたが…?

大月:移住してすぐ、およそ2年前ですね。セルフビルドパートナーであるえんがわ商店の渡辺さんのサポートのもと、家族や友人にも助けてもらいながら約1週間でつくりました。DIYの経験がほとんどなかった僕でも、結構しっかりとしたものができたので、自信になりました。そしてなにより、一連のプロセスがめちゃくちゃおもしろかったんです!

(大月さん提供)

ーーゼロからつくり上げるの、すごいですね!

大月:このときの経験から「いつか自分で家がつくれたらおもしろいかも」と感じていました。でも前回は、つくるためのあらゆる下準備をやってもらった上で、楽しいDIY体験だけに集中できるようなお膳立てをしてもらっていたんだなと…。なので、今回の小屋づくりでは全体的にレベルアップを図りたいと考え、引き続き渡辺さんにも深く関わってもらいつつ、なるべく自分で進めています。

ーー具体的にはどういったところが以前のセルフビルドとは異なるのですか?

大月:大工的な現場仕事のほか、材料を選定したり予算や工程を管理したりすることも、アドバイスをもらいながら一通り自分で行っています。実際の作業は多くの友人・知人がサポートしてくれているので、メンバーには進捗をいつも共有しているのですが、まるでみんなで一緒にプロジェクトを進めているような感覚があって、とてもありがたいです。

数年前から、暮らしでの脱アウトソーシングをテーマに、自分の生活を自分自身でつくれるようになりたいと思っているのですが、今回はそういった意味でとてもよい実践の場になっています。

(大月さん提供)

ーー暮らしにおいての脱アウトソーシング。コロナ禍でさまざまな制限がある今、より効率的に生きるために積極的にアウトソーシングしていこうという流れもあるのではと思いますが?

大月:新型コロナウイルスの世界的な流行は、私たちの生活を大きく変えました。もちろん、世の中全体の仕組みとしては、経済的な規模や効率を追求しようとするチカラが引き続きとても強力に働いています。一方で、深刻な環境問題や経済活動における持続可能性について、より真剣に考えて行動しようとする意識も、世界的なコンセンサスになってきていますよね。

お金を使ってモノやサービスを手にするときに、その向こう側にはフェアとは言い難い状況が生まれていたり、必要以上に効率化を迫られるシステムの中で苦しんでいる人がいたり…。そういったことに無知でいること、無関心でいることをやめようといった問題意識が社会のさまざまな場所で同時多発的に立ち上がり、大きなうねりになっているように感じます。

(大月さん提供)

大月:僕もそうなんですが、都市部からそれ以外の場所へ移住しようとする人の多くは「自分らしいライフスタイルを実現したい」「自分の暮らしを自分自身でつくれるようになりたい」という感覚を持っていると思うんです。多くの人が自分の生き方と向き合い、その重要な要素の1つである生活や仕事の環境を見直しているのは、とても自然なことだと思います。

無関心でいることをやめる。旅先で見つけた価値観

ーー先ほど無関心でいることをやめるという言葉がありました。こういった意識はいつから持たれていましたか?

大月:大学生の頃、見聞を広げるために国内外のいろいろな地域へバックパックを背負って出掛けていました。とくに19歳から20歳にかけて行ったニューヨーク、タイの島々やインドなどでの経験がとても濃厚でした。

ーー国名を聞いただけでも、興味深いです。

大月:9.11 アメリカ同時多発テロがあった2001年の年末年始に、ニューヨークに3週間ほど滞在しました。幼少期にアメリカで1年ほど過ごした経験があったので、ニューヨークがどのようになっているのかを自分の目で確かめたいという思いからです。また、その頃はブレイクダンスにハマっていて、本場のシーンに触れてみたいという気持ちもありました。

実際に現地のクラブに足を踏み入れてみると、そこにはすごい光景が広がっていました。大きな扉を開けたらフロアにいる全員がヘッドスピンしている、みたいな(笑)。その頃は日本でもヒップホップが一大ブームになっていた時期でしたが、クラブは踊る場所というよりもお酒を飲んだり騒ぎに行く場所というイメージ。それとは根本的に様子が異なっていたので驚きました。

ーー圧倒されたでしょうね。

大月:僕は大してうまくなかったのですが、せっかくの機会だと思い、下手なりに勇気を出してサークルの中に入って踊ってみたんです。そうしたらみんなが「イェーイ」と歓迎してくれて…!

ニューヨークにいる間は、飲食店やスーパーでのちょっとした人との触れ合いの中にも、他者への気づかいのようなものを感じました。 テロ直後だったので、まだ厳重な警戒体制が敷かれていて、あの有名なタイムズスクエアのカウントダウンも例年より人出がずいぶん少なかったようです。そういった独特の緊張感に包まれた中でも、個々を尊重し、人々がつながりをつくり出そうとしているニューヨークという街や、そこで暮らすニューヨーカーがとてもクールに感じられ、大いに刺激を受けました。なので帰国後は、どうも東京はパッとしないな…と思ってしまうほどでした。

ーー東京への物足りなさを感じた大月さんが、次にタイを選ばれたのもおもしろいですね。

(タイ・パンガン島 イメージ写真)

大月:タイはタイで、かなりのカルチャーギャップがあり、強く影響されました。それは服装にも顕著に表れて、行きはニューヨーク仕込みのB-BOYだったのですが、帰る頃には上から下まで民族衣装…という仕上がりになるくらい(笑)。

タイでは「幸せってなんだろう」というのをよく考えました。教科書で習った先進国と発展途上国のような、画一的な物差しで見ると決して豊かとは言えない状況であっても、そこにいる人がすごく生き生きとしているように感じたんです。タイでの経験は、僕の視点を大きく変えました。そして、自分自身や自国に対して改めて意識が向くようになりました。こんなにもよいところがあるのに、ないものねだりばかりしているのはもったいない、と。

ーーそして満を持してインドへ。

大月:そうです。バックパッカー的には、次はついにインドだな、と。現在の様子はわからないのですが、当時の印象としては、カースト制度の影響が色濃く根付いていて、人々がさまざまな宿命・業みたいなものを背負いながら生きているのだなと感じました。そのような実態をいくども目にしました。でも、みんな底抜けに明るいんです。インドには3カ月ほど滞在したのですが、その間ずっといろいろな人に絡まれ続けて忙しかったというか(笑)。例えば一人で電車に乗っていても、隣の人が真顔で話しかけてきたり、「これ食べる?」と急に食べ物を差し出してきたり。一人旅なのに、常に多くの人から興味関心を寄せてもらっていたという体験が、なんとも新鮮でしたね。

(当時はフィルムカメラだったのでデータはほとんど残っておらず、すぐに見つかったのはメキシコで撮ったこの写真のみ。)

ーー帰国してからのギャップが大きかったのではないですか?

大月:空港から家に帰るまでの数時間、誰からも話しかけられないことが不思議でなりませんでした。同じ空間にたくさんの人がいるのに、誰もつっこんでくれない、誰も絡んでくれない。インドで絡み続けられた20歳の青年は、「みんな見えないバリアを張っている!」と激しい違和感を覚えました。人々がむしろ積極的に関わり合わないようにしていると感じたんです。「それって変じゃない? そういった無関心を決め込む姿勢が、世の中のいろいろな問題を引き起こしているんじゃないの?」って。

ーー「無関心をやめよう」という考えはここから生まれたのですね。

大月:インドでの経験をキャンパスでいろいろな人たちにしていたら、「あの人の旅の話、おもしろいよ」とクチコミが広がり、ゼミなどにも招待してもらえました。その時のコンセプトが「無関心をやめよう」だったんです。そんな感じで「世の中に関心を持とう」と言い続けているうちに、共感してくれた仲間が集まっていって、みんなで渋谷のゴミ拾いをするアクションなどにつながっていきました。

(大月さん提供)

自分の身の周りや社会のことに関心を持ちながら、人を巻き込んで、自分たちがかっこいい・楽しいと思えることをしたい、という自分の価値観をつくる原体験となりました。

ゆかりのある御代田町で「暮らしを楽しむ」文脈で人とつながる

ーー大月さんが、移住先として御代田を選んだ理由を聞かせてください。

大月:きっかけは子育てでした。上の子が3歳になるタイミングで、いくつかのエリアを視察していたんです。その中で、御代田町の塩野・舟ヶ沢は、父の別荘があって子どもの頃からよく訪れていた場所であったこと、子どもたちを通わせたいと思える学校があったこと、自分自身も足を運ぶたびにこの環境が好きになっていったこと、この3つの理由で決断しました。

ーー御代田はゆかりのある場所だったのですね。子どもの頃のお話をお聞かせください。

大月:夏休みなどを利用して家族で過ごすこともありましたが、よく覚えているのは、小学生の時に父と2人で通った記憶です。リュックサックに鎌を入れて東京の自宅を出発し、ただひたすら草刈りをして、くたくたになって帰る。本当にそれしかしていなかったように思うのですが、子ども心にすごく清々しくて気持ちよかったんです。

父は早くに亡くなりましたが、父の大学時代の友人や会社の同僚などおよそ20家族の仲間たちによって別荘地が形づくられていきました。コミュニティをつくって自治をして、地主さんたちとも交流を深め、まだ水道も電気も通っていないような場所を少しずつ拓いて育てていった。当時の記録を父の友人に共有していただいて読み返しているのですが、地主さんとの契約書の冒頭・第一条に、次のような一文がありました。

「舟ヶ沢山落は、恵まれた自然環境の中に、文化が馥郁(ふくいく)と薫り、自由でしかも節度のある人間的交流に満たされた別荘地を理想とし、地主会、山落会共にその実現に努力する。

当時の地主さんや世話人たちの想いや誇りのようなものがここにも込められているように感じ、素晴らしいなと思います。

ーー御代田の町が持つ、懐の深さみたいなのを感じますね。

大月:時計の針をさらに戻すと、同じ御代田町内に1960年代から開拓された普賢山落という別荘地も存在します。ここは柳宗理さんをはじめとする著名な文化人たちが数十世帯ほど集まってできた場所です。浅間山のふもとで雄大な自然に抱かれながら、場づくり・ものづくりを楽しむ人々がコミュニティをつくっていく。このエリアには、不思議とそういったエネルギーがあるのかもしれませんね。

(大月さん提供)

ーー大月さんは移住後、どのように地域のコミュニティに関わっていったのですか?

大月:移住して最初にできた友だちは、小諸出身の木こりさんでした。友人の集まりで同席して知り合ったのですが、「木こりなんですか? かっこいい!」とほれてしまいました。あとは、ご近所のシニアのみなさんとのお付き合いもあって、バードウォッチングやハイキングなどにご一緒させてもらっています。他にも、薪活などに顔を出すなど、自分の暮らしをつくる、自然を楽しむという文脈で、いろいろな人と知り合うことができています。移住者だけでなく、生まれも育ちも御代田の人もいれば、Uターンしてきた人など、さまざま。

「地域の」と言っても一枚岩ではないんですよね。そこにはグラデーションがあって、俯瞰して見るとさまざまな属性の人が有機的につながっていると感じています。

ーー2年半前に移住されたと聞きましたが、大月さんは「移住者」「住民」どちらの感覚が強いですか?

大月:元移住者くらいの感覚ですね。少しずつ移住者という属性が溶けているように思います。そういったラベリングは壁をつくってしまうこともあるので、もっと曖昧でいいと思っているんです。言葉が無自覚な制約になっている場合もありますよね。

ーー移住直後から御代田町の広報のお手伝いもされているそうで。みよた町民によるnoteも拝見しました。

大月:noteでも書きましたが、御代田くらいの規模だと町のことが自分ごとにつながりやすい。一人ひとりが町の一員として町づくりに関わっているんだという意識や手応えは、地域コミュニティを無理なく活性化させていく上で不可欠なものだと思います。

体が喜ぶ感覚を味わいながら暮らす

ーー移住によって変化したことには、どういったものがありますか?

大月:最高に変化していて、毎日が楽しいです! ただ、移住によってもたらされたものと、ライフステージの変化によるものなど、複合的だと思います。とにかく一番の変化は生活環境ですね。朝起きると空気がおいしくて、目の前には豊かな自然が広がっている。一つひとつが美しいです。

以前は癒やしを求めて来ていた非日常の空間が、今では生活のすべてになっています。生き物として、こういった環境に身を置いていられることが最大の喜びですね。

(移住した年の夏、舟ヶ沢山落のコスモス畑まで散歩にでかけたときの写真。このとき妻宏美さんのお腹には第2子が。)

ーーご家族はどうですか?

大月:子どもが2人いますが、御代田で暮らしはじめてからはどろんこになることが気にならなくなりました。どんどん汚れておいで、と(笑)。東京にいた頃は、土が付いたらすぐ落とす、みたいな感覚を親子共に持っていたと思います。今ではそれをまったくいとわなくなったので、子どもも無心で遊んでいるように思います。

東京では、どうしても遊ぶことが消費と連動してしまうんですよね。何時から何時までここで時間を過ごそう、といった感じで。そういったものから解放されたことで、親子で過ごす時間がおおらかになった気がします。

(大月さん提供)

ーー今後もこのエリアへの移住は増えると予想されます。大月さんのように自分の生活を自分でつくれるようになりたいと考えている人へ、何かアドバイスをするとしたら?

大月:自分の暮らしを自分の手でつくりたいと考えるとき、山や海など豊かな自然が身近にある場所が候補としてあがりやすいと思います。ただ、子どもの教育やアクセスの問題などで「果たして現実的か」という悩みが生まれます。

僕もさまざまな選択肢の中から御代田を選びましたが、決定打となったのは、このエリアに何度か足を運んで感じた、非言語で身体的な喜びです。朝、目を覚ました時の心地よさや、ドライブしているときの爽快さ。「ここに住みたいな!」と思った瞬間が何度もありました。

(大月さん提供)

ーーそのためにも、移住を検討している場所には何度か足を運んでみることが重要なんですね。

大月:子どものことや仕事の事情は、住む場所を考える上で重要な要素ではあるけれど、そこだけで判断しないほうがよいのではと思います。自分が心地よいと思えるか、体が喜ぶか、そういった感覚的なものも大切です。そういったことにも意識を巡らせながら動いてみたら、最後は理屈を越えたところで「ここだ!」と踏み切れる場所がきっと見つかると思います。

DIYの話からスタートしたインタビューは、移住を選択した大月さんの価値観や原体験にふれていきました。「無関心でいることをやめる」という考えが、自分自身にも、コミュニティにも、社会にも向いている。大月さんに笑顔が多いのは、世の中すべてに関心を寄せていることの表れなのかもしれないと感じました。

大月さん、ありがとうございました!!